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【今日は何の日?】というテーマで #幕末 #明治 #大正 #昭和 の同日に起こった歴史的出来事を紹介します。

第1次近衛文麿内閣が成立。

【今日は何の日?】

1937年(昭和12年) 6月4日

・第1次近衛文麿内閣が成立。


昭和初期、世界大恐慌を発端とする昭和恐慌、軍部台頭のきっかけとなる満州事変等の出来事は

日本国民に政治不信と軍部への期待感を抱かせ、それに合わせるように社会秩序の大変革を求める動きが現れていきます。

1936年の二・二六事件は暴力による直接的な大変革を目指した最終局面となりました。

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以後、政治家の軍部に対する恐怖心は増長し、陸軍の実権を握る統制派(満州派)は合法的に総力戦体制構築の準備を整えていきます。

二・二六事件後、近衛文麿が大命降下されますが、皇道派将校と親しい関係から辞退。

軍部への恐怖心が頂点に達して誰も首相になりたがらない空気感の中、最終的に外相の広田弘毅が引き受けました。

広田弘毅(A級戦犯として絞首刑判決)

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広田内閣は、戦艦大和建造を含む大規模な軍拡予算案(馬場財政)、陸海軍大臣は現役の大将か中将のみとする軍部大臣現役武官制を復活。

こうした準戦時体制構築に重大な役割を果たした広田内閣でしたが

最期は議会での腹切り問答に激怒して解散を主張する寺内寿一陸相と広田首相が対立。

1937年2月2日、閣内不一致で総辞職します。

・軍部を批判した浜田議員を睨む陸相

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後継首相には天皇の信頼厚い宇垣一成陸相に大命降下されるものの、陸軍中堅の石原莞爾の策略で阻止され流産。

代わって林銑十郎大将に大命が降り、林内閣が誕生します。

林銑十郎(非主流派の大将として皇道派荒木貞夫、真崎甚三郎と共に担がれた)

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こうして陸軍中堅層の神輿に担がれた林首相でしたが、独自路線を貫き組閣作業を進めたために石原達から絶縁。

更に議会に支持基盤を持たず、政党との調整役である政務官も置かずに政権運営を行ったことから議会運営に大苦戦します。

重要な予算案は、既成政党との妥協でなんとか成立させたのも束の間、政党に猛省を促すとして突如議会を解散。(食い逃げ解散)

結果は解散前と変わらず、林内閣は僅か4ヶ月で退陣しました。


後継首相を選定する元老の西園寺公望は、自身の秘蔵っ子である近衛文麿を再び推薦。

本日6月4日、第1次近衛文麿内閣が成立しました。

近衛文麿(保守的皇道派将校と繋がりが強い一方、共産主義的革新勢力に共鳴)

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海相杉山元と米内光政、外相には広田弘毅が就任、国論の一致を望む近衛はその人脈の広さから多様な人材を政権に参画させ

また近衛自身は、史上2番目の45歳の若さで首相就任となりました。


何か大きな変革が起こせそうと国民の期待を一身に背負った近衛内閣でしたが、この翌月に盧溝橋事件が発生。

近衛首相の予想と反して、日中間の武力衝突は拡大の一途を辿り、日中全面戦争へと突入し

その後、杭州湾に上陸した日本軍は連戦連勝を重ね、1937年12月13日にはついに首都南京を占領しました。

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しかし、かねてより和平を模索していたトラウトマン工作は条件吊り上げで不調となり

1938年1月16日、「國民政府を対手とせず」で有名な第一次近衛声明によって、戦争は短期戦から長期戦へと移行。

近衛首相はラジオ演説などを通して、泥沼化して戦争の意義が見出せなくなった日中戦争(支那事変)に

哲学的意義を与えて聖戦化させ、国家総動員法等を制定するなど総力戦体制を整えました。

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また、1938年11月3日、東亜新秩序の建設を訴える第二次近衛声明の理念は、太平洋戦争の遠因となり

このような約1年半続く近衛内閣の歴史的功罪は、あまりにも大きすぎるものとなりました。