歴史の世界 Dちゃんねる

【今日は何の日?】というテーマで #幕末 #明治 #大正 #昭和 の同日に起こった歴史的出来事を紹介します。

海軍甲事件が発生。

【今日は何の日?】

1943年(昭和18年) 4月18日

・海軍甲事件が発生。


1941年12月8日、日本軍の真珠湾攻撃とマレー作戦によって太平洋戦争が勃発。

半年間、連戦連勝で占領地を拡大したものの、42年6月5日のミッドウェー海戦で虎の子の空母4隻を喪失。

8月7日から始まるガダルカナル島の戦いでは更に戦力を消耗し

43年2月7日にはガ島からも完全撤退して、次第に劣勢となります。

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連合艦隊司令長官山本五十六は、練度の高い艦隊航空戦力を陸上に下ろして攻勢を決断。

長官自ら陸海軍の一大航空拠点であったラバウルに上陸し、陣頭指揮を執りました。(い号作戦)

連日に渡って、ガ島やニューギニアの米艦船や航空基地に激しい攻撃が加えられ、い号作戦は多少の戦果を挙げて終了。

更に士気高揚を目的として、山本長官自らが最前線基地を視察する計画が立てられました。

・陣頭指揮を執る山本五十六

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本日18日、ラバウルから最前線ブインへ移動中の山本五十六長官らが乗る2機を米戦闘機が突如襲撃。

護衛戦闘機も少なく、2機はすぐに被弾炎上して1号機がジャングルへ墜落、2号機が海上に不時着しました。

1号機には山本長官が乗っており、後日全員の死亡が確認。

2号機に乗っていた連合艦隊参謀長の宇垣纏ら3名が奇跡的に生還するも重傷を負い、他の司令部幕僚は皆戦死しました。

この時の様子は宇垣纏の『戦藻録』に詳しい状況が記されています。

・撃墜された1号機

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山本長官の遺体は現地で火葬された後、トラック島に運ばれて戦艦武蔵に乗って日本本土に帰還。

山本長官の死は1か月秘匿された後、国葬実施と共に世間へ公表され、国民は大きな衝撃を受けました。

山本と同い年であった東條首相もまたその内の1人で、山本の戦死に対して


「君逝き みにしむ責の 重きかな されどやみなん 勝てやむへき」


と詠んで、別れを惜しみました。

・遺影に拝礼する東條首相

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この衝撃的な事件の原因は偶然ではなく、暗号解読による事前の待ち伏せによるものでした。

しかし米側では、偶然を装うために報道や攻勢作戦の実施等による徹底的な偽装工作がなされたため

日本海軍当局は、原因を暗号解読ではなく偶然であると結論づけました。

 

後任の連合艦隊司令長官には古賀峯一が着任し、作戦の神様と呼ばれた福留繁を参謀長とする新布陣で立て直しを図ります。

しかし、戦局は好転することなく悪化の一途を辿り、古賀長官もまた、翌年の海軍乙事件で殉職することとなります。

・古賀峯一(山本五十六と同期。マーシャル方面で艦隊決戦を企図するも失敗。)

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・福留繁(作戦部長として開戦時の真珠湾攻撃に反対)

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トラック島空襲が発生。

【今日は何の日?】

1944年(昭和19年)2月17-18日

・トラック島空襲が発生。


太平洋戦争開戦以来、日本軍は連戦連勝で占領地を拡大。

西はギルバート・マーシャル諸島、南はニューギニアソロモン諸島が最前線となります。

連合艦隊はそのどちらにも戦力を投入しやすい場所、両方面から等距離で良港だったトラック島を根拠地としました。

トラック島には、世界最大の46cm砲を装備した戦艦大和と武蔵を始め、連合艦隊主力艦が多数停泊しており

山本五十六連合艦隊司令長官もここで指揮をとりました。

・トラック島の大和と武蔵

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しかし、1942年8月7日からソロモン諸島ガダルカナル島をめぐる攻防戦が発生。

ヘンダーソン飛行場奪還を目標とする2度の総攻撃は失敗し、それを支援する連合艦隊も第三次ソロモン海戦(11月12-15日)の敗北以降、輸送船団による大規模な補給を断念。

こうして飢餓の島となった餓島からの撤退が検討され、1943年2月1〜7日のケ号作戦(ガ島撤収作戦)により、日本はガダルカナル島を失います。

駆逐艦による鼠輸送

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ガダルカナル島撤退後、新たな防衛線をブーゲンビル島(陸軍)とニュージョージア諸島(海軍)とします。

しかし、連合軍の勢いは止まらず、前線視察中の山本長官はブーゲンビル島上空で戦死。(海軍甲事件)

・戦死直前の山本五十六

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・撃墜された山本長官搭乗機

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ガ島から後退したこれらの島々や西のギルバート諸島の防衛線も、43年中には失陥ないし孤立化。

航空戦力の一大拠点であったラバウルも、連日大空襲に晒されて次第にジリ貧となってしまいます。

ラバウル航空隊

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こうした最前線の大幅な後退により、日本の真珠湾であったトラック島にも危機が訪れつつありました。

1944年1月末、マーシャル諸島に米機動部隊が大空襲を行った後、各島々へ上陸を開始。

・クェゼリン島の戦い

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・エニウェトク島の戦い

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後方に位置するトラック島にも敵偵察機が現れるようになり、大本営海軍部は敵の攻撃が近いとして、2月5日に同島から撤退を決定。

主力艦から順にパラオへ退避を開始するも、複雑な指揮系統で全ての部隊に連絡が行き届きませんでした。

本日2月17-18日、空母9隻を擁する米機動部隊は、トラック島を奇襲攻撃しました。

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1000機以上の敵機の波状攻撃(17日9波、18日12波)による大空襲で、新型の零戦52型を始め航空機300機を喪失。

更に、トラック島の補助艦船(駆逐艦、特務艦、輸送船)には、敵大編隊接近の情報が伝えられず、雷爆撃による被害が続出。

・空襲を受ける北洋丸

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・大爆発を起こす愛国丸

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運良く難を逃れて脱出した艦船も、待ち伏せた米戦艦部隊に捕捉撃滅される一方的な戦場となりました。

・戦艦部隊に撃沈される香取(練習巡洋艦)

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この2日間で重要な輸送船を中心に40隻以上が沈没し、備蓄燃料や軍需物資、地上施設も徹底的に破壊。

開戦初日の真珠湾を彷彿とする光景となり

トラック島は根拠地としての機能を完全に失いました。(戦死者約8000名)

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日本側では事前にレーダーで大編隊を捕捉していたものの、マーシャル方面に向かう敵編隊であると判断。

更に、この前日には大本営陸海軍部次長ら一行がトラック島を視察中で、その配慮から警戒配備→平常配備に移行。

これらの複合的な要因が米機動部隊の奇襲を許す結果に繋がりました。

 

トラック島空襲(海軍丁事件)の結果、開戦以来戦争指導を行なってきた大本営トップ、杉山元参謀総長永野修身軍令部総長は更迭。

後任として東條・嶋田陸海相が兼任する、いわゆる東條幕府が誕生します。

杉山元(日中戦争を泥沼化させた近衛内閣の陸相。対米英蘭開戦を主張した開戦派)

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永野修身(対米戦慎重派の多い海軍の中で予防戦争論の観点から早期開戦を主張)

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また、トラック島の無力化は同方面の軍事バランス崩壊を意味し、すぐさま絶対国防圏内のマリアナ諸島パラオへの大空襲が発生。

太平洋の戦局は完全に逆転します。

第2回衆議院議員総選挙が行われる。

【今日は何の日?】

1892年(明治25年) 2月15日

・第2回衆議院議員総選挙が行われる。


1890年11月29日、大日本帝国憲法が施行。

憲法に基づき同日、第1次山縣有朋内閣下で開会された初の帝国議会は、自由民権運動の系譜を引く反政府的な民党(立憲自由党立憲改進党)が過半数を占めていました。

・第1回帝国議会

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・第一次仮議事堂(会期中に焼失)

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山縣内閣は軍事力増強を盛り込んだ予算案(26%が陸海軍経費)を提出しますが、民党側は民力休養と政費節減を掲げて対立。

そこで政府は、一枚岩でない自由党内の土佐派議員(旧愛国公党系)に接近し、切り崩し工作を開始。

その結果、板垣退助ら土佐派議員が離党して自由倶楽部を結成し、政府寄りの吏党(大成会など)と合わせて過半数を超えます。

板垣退助(立憲自由党は土佐派、関東派、東北派、九州派の4派閥が合同して誕生)

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これらの吏党勢力が政府との予算修正交渉を行い、3月2日に衆議院本会議で予算案が可決されました。(2票差)

こうして諸外国に対し、近代化の象徴である議会運営を見せつける初の帝国議会は無事に閉会。

初の議会を解散無しで何とか乗り切った山縣首相でしたが、今後の議会運営に自信が無いとして1891年4月9日に内閣総辞職

後継首相には伊藤博文を指名するも固辞したため、薩摩閥の松方正義が就任しました。

松方正義(日本銀行を設立。松方デフレで農村が疲弊し、一部が暴徒化)

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・第二次仮議事堂(第7回を除く2〜50回まで開会された)

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同年11月26日、第1次松方正義内閣下で第2回帝国議会が開会されますが、軍艦建造費を大幅に盛り込んだ予算案(前年比650万円増)を提出すると民党側が強く反発。

逆に800万円減額を盛り込んだ予算改定案を突き付けました。

海軍要求に挑発的な民党側に激怒した樺山資紀海相は12月22日、いわゆる蛮勇演説を行います。

樺山資紀(日清戦争軍令部長。薩摩閥)
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蛮勇演説

薩長政府トカ何政府トカ言ッテモ、今日国ノ此安寧ヲ保チ、四千万ノ生霊ニ関係セズ、安全ヲ保ッタト云フコトハ、誰ノ功カデアル。」

(薩長批判を行う民党が今日平和に暮らせるのは誰のおかげか?という趣旨)


さらに樺山海相は、この人情論的な蛮勇演説に注意を与えようとした議長の発言を静止するように発言を続けました。

その結果、議会が大炎上しただけでなく、海軍費大幅削減の民党側予算案が衆議院で強行可決。

流石の事態に収拾がつかなくなった松方首相は、12月25日に初めて衆議院を解散しました。

明治天皇は非常事態を憂慮して「1度の選挙で良い結果を出し、解散の連続を避けるように」と、松方首相に伝えますが

これが結果的に選挙期間中、警察権力を用いた民党側への選挙干渉に繋がり、各地で死傷者が続出する事態を招きます。

品川弥二郎(警察権力を掌握する内務大臣。長州閥)

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・白根専一(内務次官として選挙干渉に関与。長州閥)

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本日2月15日、第2回衆議院議員総選挙が行われ、政府が支援する吏党勢力が過半数を超えました。

露骨な選挙干渉で議席を減らした民党側でしたが、吏党側議員は思想に多様性があって一枚岩ではなく

選挙後の第3回帝国議会では、選挙干渉批判の決議案が貴衆両院で提出された際、一部の吏党側議員の協力により可決。

これが責任問題に発展して、品川弥二郎内相や白根専一次官、内務省幹部らの更迭に繋がりました。

また、懸念となっていた軍艦建造費は結局通す事ができず、最終的に松方首相に愛想を尽かした高島陸相と樺山海相の辞表提出で内閣総辞職となります。

副島種臣(品川内相辞職後に後任となるも、白根次官らと対立し3ヶ月で辞任)

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広田弘毅内閣が総辞職。

【今日は何の日?】

1937年(昭和12年) 1月23日

広田弘毅内閣が総辞職。


1936年2月26日、陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件が発生。

大雪の東京は叛乱軍と一触即発の状況となり、内大臣斎藤実、大蔵大臣の高橋是清教育総監渡辺錠太郎ら政府要人が殺害される大事件となりました。

また、襲撃対象となるも運良く難を逃れた岡田啓介首相は、大事件発生の責任をとって辞職。

二・二六事件

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・岡田首相と義弟の松尾伝蔵

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後継首相は近衛文麿に大命降下されるものの、皇道派と近い関係にあった近衛は辞退しました。

軍人による政府要人殺害という事実から、有力政治家らも首相就任を忌避してしまいます。

こうして後継首相人事は難航しますが、最終的に岡田内閣の外務大臣だった広田弘毅が火中の栗を拾った(=広田)形で引き受けます。

広田弘毅(文官で唯一、A級戦犯として絞首刑判決を受ける)

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組閣中には陸軍の干渉で吉田茂自由主義者が排除されたものの、3月9日に広田内閣が成立。

陸相には寺内正毅元首相の息子の寿一(無派閥)が就任しました。

・広田内閣

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・寺内寿一(親子2代で元帥となる。太平洋戦争中の南方軍総司令官)

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寺内陸相皇道派排除を目的とした粛軍人事を断行。

現役の7大将(荒木、真崎、林、阿部、本庄、南、川島)を引退させた後、皇道派中堅層も中央から左遷されました。

また、現行制度では予備役でも陸相就任が可能であったため、真崎甚三郎大将等の皇道派予備役将校の陸相就任を危惧。

・真崎甚三郎(皇道派の領袖。二・二六事件は真崎内閣成立を目標とした)

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これを防止すべく、軍部大臣現役武官制の復活(陸海軍大臣は現役のみ)を広田首相に要求し、認めさせました。

更に軍部は軍備拡張のために大規模な予算要求を行い、大蔵大臣の馬場鍈一は要求に応じて増税と公債発行を財源とした極端な積極財政の予算案を表明。(馬場財政)

その結果、軍需品の輸入が増加して輸入超過になってしまい、円の価値下落を招いて物価高となりました。

こうした馬場財政行き詰まりの中、政友会の浜田国松議員が議会中に軍部の過度な政治干渉への批判を展開。

・浜田国松(議員歴30年の前衆議院議長)

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これに対して寺内陸相が「軍への侮辱である」と反論したところ、浜田議員が


「速記録を調べて侮辱発言があれば割腹して謝罪する。無ければ君が割腹せよ」


と再反論したことで、寺内陸相は大激怒。

浜田議員を睨みつけたため、議会が大荒れとなりました。(腹切り問答)

・浜田議員を睨む寺内陸相

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この後に議会は2日間の停会となり、寺内陸相は広田首相に対して単独辞職をちらつかせながら議会の懲罰解散を要求。

広田首相は経済面での行き詰まりから辞職を考えており、この解散要求を利用して拒否しました。

本日1月23日、閣内不一致を理由に広田内閣は総辞職しました。

後継首相には、大正期の軍縮で名を上げ派閥の長にまでなった予備役陸軍大将の宇垣一成に大命降下されます。

暴走気味の軍部への統制を西園寺公望から期待されての人選でした。

宇垣一成(長州閥に代わる宇垣閥を形成。何度も首相候補となる)

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しかし宇垣は、クーデター未遂の三月事件で人望を失っていたことから、陸軍内で宇垣内閣阻止の動きが開始。

参謀本部第1部長心得の石原莞爾陸軍省兵務局兵務課長の田中新一ら陸軍中堅層は、広田内閣で復活した軍部大臣現役武官制を悪用して宇垣内閣の陸相に就任しないよう政治工作。

陸軍の方針として宇垣内閣に陸相を出さないことが決定し、陸相を得られない宇垣は組閣断念に追い込まれました。(流産内閣)

こうした軍部大臣現役武官制の悪用は以後も絶大な効力を発揮し、軍部が台頭する日本の運命を決定づけるものとなります。

阿部信行内閣が総辞職。

【今日は何の日?】

1940年(昭和15年) 1月14日

・阿部信行内閣が総辞職。


1939年8月28日、防共の立場からドイツとの関係強化を進めていた平沼騏一郎内閣は、まさかの独ソ不可侵条約締結の報を受けて総辞職。

その際に「欧州の天地は『複雑怪奇』なる新情勢を生じたので…」という名言を遺しました。

平沼首相に代わり大命降下を受けたのが、予備役陸軍大将の阿部信行でした。

平沼騏一郎と阿部信行

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阿部は軍政面で手腕を発揮した政治軍人でありながら、派閥に中立的な政治的無色であった点と昭和天皇の信頼が厚かった点から後継首相に選ばれました。

かくして8月30日、阿部信行を首班とする阿部内閣が成立。

新党運動に積極的な革新派の政党政治家が多数入閣する挙国一致内閣でした。

・阿部内閣

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しかし内閣成立直後の9月3日、ドイツのポーランド侵攻に対して英仏が宣戦布告。

第二次欧州大戦が勃発します。

電撃戦によるポーランド侵攻

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・機械化されたドイツ軍に挑むポーランド軍

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この翌日に阿部内閣は、「帝国は之に介入せず」と局外中立を宣言しますが、組閣早々に難しい舵取りを迫られます。

また外交面では、泥沼化していた日中戦争解決を第一に掲げるも、平沼内閣時に発生した天津租界封鎖事件に伴う日英米関係悪化

ノモンハン事件に伴う日ソ関係悪化という無理難題の状況を押し付けられました。

・天津境封鎖事件(英国への圧力の結果、日米通商航海条約破棄を通告される)

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ノモンハン事件(些細な国境紛争が一転、ソ連との全面戦争一歩手前となる)

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内政面では、当時所管がバラバラであった貿易行政を一元化しようとした貿易省設置問題で、外務省官僚の大ストライキを受け失敗。

また、第二次欧州大戦勃発による物価高と総力戦体制を見据え、国家総動員法に基づく価格等統制令(九・一八ストップ令)を公布するも

却って米不足に陥ったことから、出回り促進のために1ヶ月も経たず米価を引き上げました。

国家総動員法(政府が自由に決める勅令で議会を通さず何でも可能な委任立法)

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このような市場経済を無視した政策は、一般大衆の売り惜しみと買い溜めを引き起こします。

これらの相次ぐ失政により、議会の8割を占めていた政友・民政両党議員は、12月27日に内閣不信任を突き付けました。

阿部首相は議会の解散を検討するものの

当初は支持していた陸軍からも辞職勧告を受けたため、本日1月14日、阿部内閣は総辞職しました。

阿部首相の後継人事では陸軍の介入が排除され、昭和天皇の信頼が厚かった予備役海軍大将の米内光政に大命降下。

・米内光政内閣

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英米派の米内内閣は、成立と同時に陸軍の倒閣運動が始まったとされ

半年後のドイツの電撃的大勝利に伴う新体制運動の高まりから、軍部大臣現役武官制により強制退陣します。

功山寺挙兵が発生。

【今日は何の日?】

1865年(元治元年) 1月12日

功山寺挙兵が発生。


1864年長州藩尊皇攘夷を志向する正義派が実権を握っており、同年8月に発生した禁門の変で御所を攻撃したことから、長州藩は朝敵となりました。

幕府は全国諸藩を動員して15万人にも及ぶ征長軍を編成し、長州藩への総攻撃を計画します。

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https://m.youtube.com/watch?v=V6JnoQdRvgg


長州藩ではこの征長軍への対応を協議していた最中、今度は9月に英仏米蘭の四国連合艦隊から攻撃を受け

下関砲台群を占拠される事件が発生しました。

・四国艦隊下関砲撃事件

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これらの相次ぐ失政により長州藩正義派は失脚し、椋梨藤太を中心とする俗論派の政権が誕生。

俗論派は戦争を避けるため、幕府との融和を第一とする純一恭順を掲げ

征長軍参謀の西郷隆盛らの命令に従い、禁門の変の責任者である正義派家老らを切腹及び斬首刑にしました。

・福原元僴(長州藩三家老の一人、禁門の変長州藩主力軍の総大将)

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こうした俗論派政権による誠心誠意の謝罪が功を奏し、征長軍との戦争は回避されるものの

主戦論を掲げる正義派に対する圧力は強まりました。

正義派の中心であった高杉晋作は不満を募らせおり、奇兵隊などの諸隊に決起すべきと主張。

しかしその最中、俗論派との融和論を掲げていた奇兵隊総督の赤禰武人を中傷したことで説得に失敗しました。

赤禰武人(第3代奇兵隊総督、正義派復権後に悲惨な最期を迎える)

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翌年1月11日深夜、高杉は同調した石川小五郎の遊撃隊と伊藤博文の力士隊のわずか80名を従え、大雪の中で功山寺三条実美ら五卿の元を訪ね


「これよりは長州男児の肝っ玉をお目にかけ申すべし」


と別れの挨拶を行い、出陣。

本日1月12日(旧暦 12月16日)、功山寺で挙兵した高杉晋作らは、下関の新地会所を襲撃しました。

高杉らに同情的だった総奉行の根来上総は抵抗することなく、金銭を差し出し協力。

下関を拠点とした高杉ら決起軍は、続いて三田尻の海軍局を襲撃し、軍艦1隻を奪いとることに成功しました。

こうした高杉らの活躍を知った山縣有朋らの諸隊は、決起軍に同調することを決定。

長州藩の歴史を変える元治の内乱が勃発します。

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https://m.youtube.com/watch?v=awIq2lnNJ7M

第3次桂太郎内閣が成立。

【今日は何の日?】

1912年(大正元年) 12月21日

・第3次桂太郎内閣が成立。


1885年12月の内閣制度誕生以来、その首席宰相である首相は、明治維新に貢献した山縣有朋伊藤博文藩閥勢力が持ち回りで就任していました。

彼らが歳をとって第一線を引くと、山縣子分格の桂太郎

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伊藤子分格の西園寺公望

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といった第2世代が交互に首相に就任する、いわゆる桂園時代となります。

桂園時代の議会は、日本憲政史上唯一の2期連続任期満了に伴う総選挙が行われ

首相の桂太郎は陸軍軍人ながら人身掌握術に長けた政治軍人として、西園寺は10年間のパリ留学中に民権思想を学んだ経験から第1党の立憲政友会総裁として活躍。

両者の妥協の下で安定した議会運営がなされていました。

・パリ留学時代の西園寺

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しかし、第2次西園寺内閣下で朝鮮半島に駐留させる師団増設を求める陸軍と内閣が対立する、いわゆる二個師団増設問題が発生。

政党嫌いの山縣の代弁者として長年議会と対峙してきた桂は、政党政治に理解を示し始め、反政友会の桂新党結成を考えるようになっていました。

二個師団増設問題発生を受け、政治的野心のあった桂(内大臣侍従長)は、陸軍大臣の上原勇作を焚き付けて辞職させ

その後、陸軍が後任の陸相を出さなかったことから、西園寺内閣は総辞職。(軍部大臣現役武官制)

本日12月21日、第3次桂太郎内閣が成立しました。

桂内閣には、後に首相経験者となる加藤高明(後日外相)、若槻禮次郎(蔵相)、斎藤実(海相)が入閣します。

加藤高明(後の立憲民政党の母体となる立憲同志会を結成)

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若槻禮次郎(満州事変発生時に立憲民政党総裁兼首相)

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斎藤実(犬養毅暗殺後に挙国一致内閣の首相)

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しかし、山縣と桂ら陸軍の陰謀で、世間の支持率が高かった西園寺内閣を倒閣したとして、桂内閣は厳しい船出となり

すぐに閥族打破・憲政擁護を掲げる第一次護憲運動が発生。

連日、多くの群衆が国会を取り囲む大正政変に発展します。

・政府寄りの新聞社を襲撃する群衆

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