【今日は何の日?】
1892年(明治25年) 2月15日
・第2回衆議院議員総選挙が行われる。
1890年11月29日、大日本帝国憲法が施行。
憲法に基づき同日、第1次山縣有朋内閣下で開会された初の帝国議会は、自由民権運動の系譜を引く反政府的な民党(立憲自由党、立憲改進党)が過半数を占めていました。
・第1回帝国議会
・第一次仮議事堂(会期中に焼失)
山縣内閣は軍事力増強を盛り込んだ予算案(26%が陸海軍経費)を提出しますが、民党側は民力休養と政費節減を掲げて対立。
そこで政府は、一枚岩でない自由党内の土佐派議員(旧愛国公党系)に接近し、切り崩し工作を開始。
その結果、板垣退助ら土佐派議員が離党して自由倶楽部を結成し、政府寄りの吏党(大成会など)と合わせて過半数を超えます。
・板垣退助(立憲自由党は土佐派、関東派、東北派、九州派の4派閥が合同して誕生)
これらの吏党勢力が政府との予算修正交渉を行い、3月2日に衆議院本会議で予算案が可決されました。(2票差)
こうして諸外国に対し、近代化の象徴である議会運営を見せつける初の帝国議会は無事に閉会。
初の議会を解散無しで何とか乗り切った山縣首相でしたが、今後の議会運営に自信が無いとして1891年4月9日に内閣総辞職。
後継首相には伊藤博文を指名するも固辞したため、薩摩閥の松方正義が就任しました。
・松方正義(日本銀行を設立。松方デフレで農村が疲弊し、一部が暴徒化)
・第二次仮議事堂(第7回を除く2〜50回まで開会された)
同年11月26日、第1次松方正義内閣下で第2回帝国議会が開会されますが、軍艦建造費を大幅に盛り込んだ予算案(前年比650万円増)を提出すると民党側が強く反発。
逆に800万円減額を盛り込んだ予算改定案を突き付けました。
海軍要求に挑発的な民党側に激怒した樺山資紀海相は12月22日、いわゆる蛮勇演説を行います。
・樺山資紀(日清戦争で軍令部長。薩摩閥)
蛮勇演説
「薩長政府トカ何政府トカ言ッテモ、今日国ノ此安寧ヲ保チ、四千万ノ生霊ニ関係セズ、安全ヲ保ッタト云フコトハ、誰ノ功カデアル。」
(薩長批判を行う民党が今日平和に暮らせるのは誰のおかげか?という趣旨)
さらに樺山海相は、この人情論的な蛮勇演説に注意を与えようとした議長の発言を静止するように発言を続けました。
その結果、議会が大炎上しただけでなく、海軍費大幅削減の民党側予算案が衆議院で強行可決。
流石の事態に収拾がつかなくなった松方首相は、12月25日に初めて衆議院を解散しました。
明治天皇は非常事態を憂慮して「1度の選挙で良い結果を出し、解散の連続を避けるように」と、松方首相に伝えますが
これが結果的に選挙期間中、警察権力を用いた民党側への選挙干渉に繋がり、各地で死傷者が続出する事態を招きます。
・品川弥二郎(警察権力を掌握する内務大臣。長州閥)
・白根専一(内務次官として選挙干渉に関与。長州閥)
本日2月15日、第2回衆議院議員総選挙が行われ、政府が支援する吏党勢力が過半数を超えました。
露骨な選挙干渉で議席を減らした民党側でしたが、吏党側議員は思想に多様性があって一枚岩ではなく
選挙後の第3回帝国議会では、選挙干渉批判の決議案が貴衆両院で提出された際、一部の吏党側議員の協力により可決。
これが責任問題に発展して、品川弥二郎内相や白根専一次官、内務省幹部らの更迭に繋がりました。
また、懸念となっていた軍艦建造費は結局通す事ができず、最終的に松方首相に愛想を尽かした高島陸相と樺山海相の辞表提出で内閣総辞職となります。