【今日は何の日?】
1940年(昭和15年) 1月14日
・阿部信行内閣が総辞職。
1939年8月28日、防共の立場からドイツとの関係強化を進めていた平沼騏一郎内閣は、まさかの独ソ不可侵条約締結の報を受けて総辞職。
その際に「欧州の天地は『複雑怪奇』なる新情勢を生じたので…」という名言を遺しました。
平沼首相に代わり大命降下を受けたのが、予備役陸軍大将の阿部信行でした。
・平沼騏一郎と阿部信行
阿部は軍政面で手腕を発揮した政治軍人でありながら、派閥に中立的な政治的無色であった点と昭和天皇の信頼が厚かった点から後継首相に選ばれました。
かくして8月30日、阿部信行を首班とする阿部内閣が成立。
新党運動に積極的な革新派の政党政治家が多数入閣する挙国一致内閣でした。
・阿部内閣
しかし内閣成立直後の9月3日、ドイツのポーランド侵攻に対して英仏が宣戦布告。
第二次欧州大戦が勃発します。
・電撃戦によるポーランド侵攻
・機械化されたドイツ軍に挑むポーランド軍
この翌日に阿部内閣は、「帝国は之に介入せず」と局外中立を宣言しますが、組閣早々に難しい舵取りを迫られます。
また外交面では、泥沼化していた日中戦争解決を第一に掲げるも、平沼内閣時に発生した天津租界封鎖事件に伴う日英米関係悪化
ノモンハン事件に伴う日ソ関係悪化という無理難題の状況を押し付けられました。
・天津境封鎖事件(英国への圧力の結果、日米通商航海条約破棄を通告される)
・ノモンハン事件(些細な国境紛争が一転、ソ連との全面戦争一歩手前となる)
内政面では、当時所管がバラバラであった貿易行政を一元化しようとした貿易省設置問題で、外務省官僚の大ストライキを受け失敗。
また、第二次欧州大戦勃発による物価高と総力戦体制を見据え、国家総動員法に基づく価格等統制令(九・一八ストップ令)を公布するも
却って米不足に陥ったことから、出回り促進のために1ヶ月も経たず米価を引き上げました。
・国家総動員法(政府が自由に決める勅令で議会を通さず何でも可能な委任立法)
このような市場経済を無視した政策は、一般大衆の売り惜しみと買い溜めを引き起こします。
これらの相次ぐ失政により、議会の8割を占めていた政友・民政両党議員は、12月27日に内閣不信任を突き付けました。
阿部首相は議会の解散を検討するものの
当初は支持していた陸軍からも辞職勧告を受けたため、本日1月14日、阿部内閣は総辞職しました。
阿部首相の後継人事では陸軍の介入が排除され、昭和天皇の信頼が厚かった予備役海軍大将の米内光政に大命降下。
・米内光政内閣
親英米派の米内内閣は、成立と同時に陸軍の倒閣運動が始まったとされ
半年後のドイツの電撃的大勝利に伴う新体制運動の高まりから、軍部大臣現役武官制により強制退陣します。