【今日は何の日?】
1916年(大正5年) 10月10日
・憲政会が結成される。
原敬を中心に何度も政府与党を務める立憲政友会が力を増す一方、反政友会系の野党勢力は乱立して伸び悩んでいました。
しかし、1914年4月に大隈重信の首相就任をきっかけに、立憲同志会(桂太郎が結成)、中正会(政友会から離党した尾崎行雄ら)、公友倶楽部(大隈伯後援会が母体)が政府与党となります。
・大隈重信
・加藤高明(大隈内閣副総理兼外務大臣)
・尾崎行雄(明治大正昭和期に国会議員を歴任した憲政の神様)
同諸政党は大隈首相辞任後、今後も政友会と対抗することで一致したことから、立憲同志会を率いる加藤高明を中心に合同構想が浮上。
本日10月10日、3党が結集して憲政会が結成されました。これにより政友会を抑えた198議席を有する衆議院第一党となります。
しかし、1917年4月の総選挙では藩閥勢力の寺内正毅内閣を支持する政友会に敗れて第二党に転落。
原敬内閣成立後の1920年5月総選挙では、元老の否認やシベリア出兵反対、労働組合の公認といった政策を掲げるも惨敗しました。
党勢低迷による厳しい時代が続きますが、原首相の暗殺で政友会は弱体化して政権が崩壊。
衆議院第二党の憲政会内閣誕生が現実的となりますが
大隈内閣時にやらかした経験がある加藤に対して、首相としての適性を元老が疑問視した結果
次期選挙までの繋ぎを目的とした中間内閣(加藤友三郎→山本権兵衛→清浦奎吾内閣)が誕生しました。
1924年の第二次護憲運動により、加藤がようやく首相に就任して、憲政会は念願の政府与党となりました。
・加藤高明内閣(普通選挙法、治安維持法を制定)
加藤首相病死後は若槻禮次郎が政権を引き継ぎ、1927年7月には政友会から分裂した政友本党と合同。濱口雄幸を総裁とする戦前の二大政党、立憲民政党が誕生します。