【今日は何の日?】
1921年(大正10年) 11月4日
・原敬暗殺事件が発生。
新聞記者、官僚を経て政友会結成に尽力した原敬は、持ち前の事務処理能力の高さと調整能力を発揮して政友会の中心的存在となります。
政友会は地方への鉄道建設やインフラ整備といった積極政策を目指す政治手法で、財閥や地主層の支持を広げ
議会では第1党として山縣有朋ら反政党的藩閥勢力と対立しつつ、時には妥協に転じることで着々と政策を実現。
戦前日本を代表する一大政党に成長しました。
政友会を束ねる絶対的な存在となった原総裁は1918年9月29日、ついに大命降下され原敬内閣が成立します。
・左から加藤友三郎海相、原首相、床次竹二郎内相、内田康哉外相
爵位を持たない初の平民宰相として庶民の期待が大きかった原首相でしたが、実際にはリアリストの原らしい無難な政策が行われ
政友会代議士の地元を通す利益誘導型の鉄道整備は、我田引鉄と批判されました。
また、普通選挙法を時期尚早として反対、閣僚スキャンダル等で政治不信が広がったことから、首相を3年務めた原自身も辞職を考えていた矢先、大事件が起こります。
本日11月4日夜、政友会京都支部大会に出席するため東京駅に到着した原首相は、鉄道員の中岡艮一に突然刺されました。
・東京駅丸の内南口
胸を刺された原首相は即死しました。
犯人の中岡は無期刑となりますが、3度の減刑により1934年に出獄。
裁判が円滑に行われ恩赦されたことから、ワシントン海軍軍縮を進める原内閣に反発した軍部や右翼の関与が疑われています。
・中岡艮一
原を失った政友会は高橋是清を後継総裁兼首相とするも、原のようなカリスマ性を持たない高橋は政友会を上手くまとめられず、わずか半年で内閣総辞職しました。
・高橋是清(財政の神様)
その後、衆議院第1党として政友会が加藤友三郎内閣を支えるも加藤首相は病死。
山本権兵衛→清浦奎吾と中間内閣が続いて政権の座を2度も逃し、なおも総裁職に固執した高橋総裁には非難が集中。
清浦内閣を支持する非総裁派の床次竹二郎ら過半数以上の149人が離党届を提出して、政友本党を結成する大事態となりました。
・床次竹二郎(政友会の実力者として大臣を歴任、政友本党総裁、万年首相候補)
原という太陽を失った政友会は、その後も総裁人事に苦しみ、外部から田中義一陸軍大将や犬養毅といった有力者を招聘。
田中の誘いで多くの国粋主義者が入党して在郷軍人会が支持団体となり、自由党の流れを汲む民権派の政友会は徐々に親軍色を鮮明にしていきます。