【今日は何の日?】
1898年(明治31年) 11月3日
・憲政本党が結成される。
1890年の帝国議会創設以来、政府に批判的な民党が議会の過半数を占める状況が続きます。
伊藤博文ら藩閥内閣は議会を無視する超然主義を標榜するも、実際には二大政党の自由党か進歩党どちらかと妥協して政権運営が行われました。
しかし、第3次伊藤博文内閣時に地租増徴法案で対立したため議会を解散した結果、両党は大連立を組み憲政党が誕生します。
こうして政権運営が絶望的となった伊藤内閣は総辞職。
後任に名乗り出る元老がいないことから、旧両党代表の板垣退助と大隈重信の両名に突然大命降下されました。
・板垣退助(自由党)
・大隈重信(進歩党)
1898年6月30日、第1次大隈重信内閣(板垣は内務大臣)が成立します。
日本初の政党内閣として誕生した隈板内閣でしたが、藩閥政府との対抗から急遽結成された憲政党では内紛が絶えず
8月21日、尾崎行雄文相の共和演説事件が発生したことを受け、星亨ら旧自由党系は尾崎文相辞任を要求しました。
・星亨(第2代衆議院議長、立憲政友会結成に貢献するも暗殺される)
文相後任人事で対立が激化したため、10月下旬に大隈首相が独断で旧進歩党系の犬養毅に決めた結果、旧自由党系は大反発。
29日、旧自由党系は一方的に憲政党の解散を宣言して旧進歩党系を追い出し、同名の憲政党を再結成しました。
これにより大隈内閣は崩壊。
追い出された旧進歩党系は、板垣内相の内務省から憲政党の名称使用禁止命令を受けたため
本日11月3日、憲政本党を結成しました。
旧自由党系の憲政党は後に立憲政友会となり、藩閥政府と協力して与党の地位を確立。
・立憲政友会本部
憲政本党は万年野党として伸び悩み、民党路線を継続する非改革派と藩閥政府と結託する改革派の対立が発生。
最終的に、犬養毅の立憲国民党(→革新倶楽部)と加藤高明の立憲同志会(→憲政会)に分裂します。