歴史の世界 Dちゃんねる

【今日は何の日?】というテーマで #幕末 #明治 #大正 #昭和 の同日に起こった歴史的出来事を紹介します。

犬養毅内閣が成立。

【今日は何の日?】

1931年(昭和6年) 12月13日

犬養毅内閣が成立。


1930年1月、立憲民政党濱口雄幸内閣は、井上準之助蔵相主導の下で公約に掲げていた金解禁(金本位制)を断行。

前年10月にニューヨーク株式市場が大暴落していたものの、一時的なものであると判断していました。

取り付け騒ぎで銀行に集まる群衆

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暗黒の木曜日(10月24日を境に株価が長期下落トレンドとなる)

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しかし、この大暴落は一時的なものではない世界大恐慌で、デフレ政策である金解禁により日本経済は大混乱。

中小企業の倒産が相次ぎ、大量の失業者が発生しました。

深刻な経済不況に加え、ロンドン海軍軍縮条約調印を進めた濱口首相は軍部の恨みを買い、11月に狙撃事件が発生して退陣。

・狙撃された濱口首相

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しかし、濱口内閣を引き継いだ第2次若槻禮次郎内閣でも井上蔵相は留任となり、金解禁は継続されました。

そんな中、1931年9月18日に満州事変が発生。

同月21日には、金解禁継続の根拠としていた英国が金輸出禁止に転換した影響で、近々日本も金輸出再禁輸になると判断した大手銀行が大規模なドル買いを決行。

円と紐づく金が大量に国外流出して、デフレに益々拍車がかかり

更に満州事変に至っては、不拡大方針を掲げる若槻内閣とは裏腹に、事変は拡大の一途を辿りました。

・米国に進出せずと伝えた錦州に進出する日本軍

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こうした軍部の動きに危機感を抱いた安達謙蔵内相は、金輸出再禁止を唱える政友会との大連立を主張。

一時は安達内相に賛同した若槻首相でしたが、井上蔵相らの反発を受けて断念。

12月13日、閣内不一致により内閣総辞職しました。

・安達謙蔵(中野正剛らと共に親軍部政党の国民同盟を結成)

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元老西園寺公望は、次期首相に政友会総裁の犬養毅を推薦して政権交代となります。

本日12月13日、政友会単独の犬養毅内閣が成立しました。

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陸相には皇道派荒木貞夫、蔵相には財政の神様こと高橋是清を起用し、かねてより問題となっていた金解禁政策は即日停止となりました。

円の発行量が制限される金本位制から管理通貨制度に移行したことが功を奏し、主要国では日本が最も早く世界恐慌から脱することとなるも

政策転換を見越してドル買いしていた銀行や財閥は、為替変動で莫大な利益を上げました。

このような庶民の不満は一部でテロリズムとなって社会に現れ、翌年の血盟団事件五・一五事件で井上元蔵相や犬養首相が暗殺される結果となり、犬養内閣が最期の政党内閣となります。

井上準之助(日銀総裁を務め、次期首相候補と期待されるも暗殺)

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血盟団事件

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・五一五事件

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大東亜戦争の呼称を閣議決定。

【今日は何の日?】

1941年(昭和16年) 12月12日

大東亜戦争の呼称を閣議決定


同年12月8日、日本陸海軍のマレー半島上陸と真珠湾奇襲攻撃により対米英戦が始まりました。

日本は既に中国と互いに宣戦布告の無い全面戦争を行っており、当時は支那事変と呼んでいました。

支那事変は極東地域に自存自衛の勢力圏を築く東亜新秩序の建設を目的としており、その過程で今回の対米英戦が勃発します。

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ここで新たに始まった対米英戦を何と呼ぶのか議論となります。

海軍側から太平洋戦争、興亜戦争などにすべきとの声もありましたが、支那事変の最中に発生した対米英戦であり、今後の対ソ戦勃発の可能性も考慮した結果

それらとの兼ね合いで、大東亜戦争にすべきという声が挙がります。

この大東亜の呼称は、ナチスドイツの影響を受けた松岡洋右外相の談話が元で当時流行語となったものでした。

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本日12月12日、東條内閣は「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」と閣議決定しました。

大東亜戦争は、自存自衛と欧米の東南アジア植民地解放を目指す大東亜共栄圏の建設を目的とします。

開戦初頭の連戦連勝で植民地を占領し、1943年11月に開催される大東亜会議でアジア各国の独立が承認されました。

・大東亜会議(東京会議)

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一方、その政府の実態は戦争遂行に協力的な親日政権であり、大東亜政略指導大綱(マレー等の資源地帯領有化)に象徴されるような日本中心の階級的勢力圏の建設でした。

聖戦とされた大東亜戦争は、戦時中一貫してその呼称が使用されました。

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敗戦後、日本の統治を行うGHQは、軍国主義を連想する用語の使用を禁止する神道指令、プレスコードを発出し、大東亜戦争の呼称使用を禁じました。

この影響は学校教育にも及び、大東亜戦争に替わって太平洋戦争が用いられるようになり、完全に定着しました。

一方、神社本庁大東亜戦争、皇室は先の大戦歴史学会はアジア・太平洋戦争と呼ぶなど

過去の歴史によるイデオロギー問題と絡んでしまい、定着化した太平洋戦争を含めた複数の呼称が乱立して問題となっており、現在に至っています。

マレー沖海戦が発生。

【今日は何の日?】

1941年(昭和16年) 12月10日

マレー沖海戦が発生。


同年12月8日未明、日本陸軍は英国植民地のシンガポール占領を目的にマレー半島コタバルへ上陸。

日本海軍は真珠湾停泊中の米太平洋艦隊に奇襲攻撃を加えて大戦果を挙げ、3年8ヶ月に及ぶ太平洋戦争が勃発します。

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このような事態を予測していた英国は、当時不沈艦と宣伝された新型戦艦プリンスオブウェールズ巡洋戦艦レパルスの2隻を東洋へ派遣していました。

2隻主体とする英国東洋艦隊は、日本軍の企図を阻止すべくシンガポールのセレター軍港を出撃。

・プリンスオブウェールズ(全長227.1m 主砲35.6cm 速力28ノット 1941年就役)

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・レパルス(全長242m 主砲38.1m 速力31.5ノット 1916年就役)

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9日には警戒中の日本潜水艦部隊から東洋艦隊発見の報が相次ぎ

本日12月10日、南部仏印日本海軍基地航空部隊は、日本輸送船団へ攻撃を企図する東洋艦隊を発見しました。

・赤線が東洋艦隊の航跡

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数次に渡る基地航空隊の爆撃と魚雷攻撃がプリンスオブウェールズに次々と命中し、同艦は戦闘不能

巧みな操艦技術で何度も攻撃を回避していたレパルスもついに被弾してしまい

東洋艦隊司令長官のトーマスフィリップス提督を始め約800名が、沈みゆく2隻と運命を共にしました。

・航空攻撃を受けるプリンスオブウェールズ(上)とレパルス(下)

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・味方駆逐艦に退避するプリンスオブウェールズの乗員

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こうして英国植民地を防衛するために派遣された虎の子の戦艦戦力は壊滅。

以後、日本軍のマレー作戦は順調に進行していき、マレー沖海戦はその成功を象徴する戦いとして戦争画にもなりました。

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戦艦2隻沈没の報を受けたチャーチル首相は、あまりにも予想外の出来事に驚愕して敗戦を覚悟したとされ

情勢を注視していた山本五十六連合艦隊司令長官も、旧式のレパルス撃沈が限界と予想して部下とビールを賭けていたというエピソードが残されています。

・プリンスオブウェールズを訪問するチャーチル首相

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年々進化を遂げていた航空機の優位性を叫ぶ声は高まっていたものの、未だ航行中の軍艦を撃沈する能力は無いとされていました。

しかし今回のマレー沖海戦は、航行中の戦艦が撃沈された初の事例として全世界に衝撃を与え、軍事学の常識を覆す結果となりました。

航空機の重要性を理解した米国は、真珠湾攻撃での大被害もあったため戦艦を主力とする大艦巨砲主義から航空主兵主義に転換。

空母や航空機の戦力拡充に励む一方、常識を覆した当事者である日本海軍が航空主兵主義に転換するのは、敗戦色濃厚となる数年先の話となります。

カサブランカ級空母(週刊護衛空母)

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エセックス級空母(月刊正規空母)

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・ウルシー泊地に集結した米空母群

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・神風攻撃が命中したエセックス

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甲申事変が発生。

【今日は何の日?】

1884年(光緒10年) 12月4日

・甲申事変が発生。


江戸幕府崩壊後に誕生した明治新政府は、幕府と交流のあった朝鮮と国交を結ぶため使節を派遣するも、拒否されます。

これが原因で、明治6年にいわゆる征韓論政変が発生しました。

・明治六年政変(西郷隆盛ら5参議をはじめ、約600名が辞職)

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この頃朝鮮では、国王高宗の実父、大院君が鎖国攘夷を掲げ実権を握っていましたが、景福宮再建に固執して財政悪化を招き1873年11月に失脚。

 

・興宣大院君(数々の改革を成し遂げ、閔妃一族と生々しい権力闘争を繰り広げる)

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大院君失脚後、強い者に迎合する思想の事大主義を掲げた高宗の妃、閔妃とその一族が実権を握ります。

1875年9月、日本の軍艦が朝鮮側から砲撃される江華島事件が発生。

江華島事件

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これをキッカケに閔妃政権は日朝修好条規を結び、朝鮮は開国政策に転じました。

閔妃は日本や西洋に対して好意的であった一方、一族を要職につけて権力を独占したため政治は腐敗。

大院君の時代を懐かしむ者が増え、当の大院君も期待に応えるべくクーデターを計画。

1882年7月、壬午事変が発生しました。

クーデターは一時成功して大院君政権が誕生するも、宗主国である清国が大軍を派遣して大院君を拉致し、反乱軍は鎮圧。

壬午事変(クーデターの最中、日本公使館員らが殺害された)

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・天津に幽閉中の大院君

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壬午事変後、復活した閔妃政権は外交面で清国との関係を重視し、内政面では度重なる祭祀で浪費。

清国から派遣された野心家の袁世凱が朝鮮の実権を握る状態となりました。

自主独立による朝鮮の近代化を目指す急進開化派(独立党)は、危機感を抱いてクーデターを計画します。

急進開化派は、日本の明治維新に影響を受けた金玉均と朴泳孝を中心とする青年貴族官僚集団で

福沢諭吉井上馨外務卿ら多くの日本の有力者と交流があり、資金提供を受けていました。

金玉均(甲申事変後、上海で暗殺された後、残忍な凌遅刑となる)

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・朴泳孝(太極旗のデザインを考案したとされる)

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1884年8月、ベトナム領有を目論むフランスと宗主国の清国との間で清仏戦争が勃発しました。

清仏戦争(戦争の結果、仏領インドシナが成立する)

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劣勢となった清国は朝鮮駐屯軍の半数1500名を内地へ移動しました。

これを好機と捉えた急進開化派は、日本公使の竹添進一郎にクーデター計画を打ち明け、竹添公使も協力を約束。

・竹添進一郎

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本日12月4日、郵政局開庁の宴会に乗じて放火。清国軍の反乱であると偽って高宗に報告しました。

報告を受けた高宗は直ちに日本公使館に支援を要請し、日本軍が出動。

この間、王宮に駆けつけた閔妃政権の高官が次々と殺害され

一夜にして金玉均ら急進開化派を中心とする新政権が誕生しました。

しかしこれを許さない清国は6日、袁世凱ら率いる清国軍1300が王宮へ突入。

袁世凱(李鴻章の下で力を付け、後に中華民国皇帝となる)

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王宮を守る朝鮮軍400と日本軍150は清国軍と交戦するも多勢に無勢で撤退し、新政権は三日天下で崩壊しました。

首謀者の金玉均らは竹添公使と共に日本へ逃亡。

今回の戦闘の影響で首都の漢城府は大混乱となり、多数の日本人居留民が殺害されました。

漢城

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クーデターへの関与を疑われた日本政府は清国と朝鮮内の駐兵権を失う天津条約を結び、朝鮮における影響力を後退させることとなります。

一方で、天津条約内の居留民保護を目的とする緊急出兵権は、10年後に勃発する日清戦争の伏線となります。

御前会議で対米英蘭開戦を決定。

【今日は何の日?】

1941年(昭和16年) 12月1日

・御前会議で対米英蘭開戦を決定。


同年8月1日、米国政府は日本軍の南部仏印進駐を受けて、対日石油全面禁輸措置を断行。

石油禁輸に衝撃を受けた日本政府と軍部は、9月6日に御前会議を開催。

・御前会議(※写真は1938年の第1回会議)

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米国との外交交渉が決裂した場合は10月上旬に対米英蘭戦を決意する、という帝国国策遂行要領を決定しました。

しかし、対米英蘭戦に自信の無い近衛文麿首相は外交交渉継続にこだわり、帝国国策遂行要領の履行を求める東條英機陸相と対立。

10月16日、近衛が首相職を投げ出す形で内閣総辞職しました。

・第3次近衛文麿内閣

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後継首相には、和平のために毒を以て毒を制す考えの木戸幸一内大臣の推薦で、主戦派の東條英機に大命降下。

開戦に消極的な昭和天皇は、参内した東條に帝国国策遂行要領の再検討(白紙還元の御諚)を命じ、東條内閣が誕生します。

・東條内閣(10月18日に成立)

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和平を強く望む天皇の考えを知った東條首相は、主戦派から一転して消極的開戦派となり、議長として大本営政府連絡会議を開催。

甲案と乙案の2段階の譲歩案による外交交渉を行い、決裂した場合は12月初旬に開戦する和戦両様の結論に達しました。

この結論は11月5日の御前会議で、新たな帝国国策遂行要領として正式決定となります。

 

・甲案(25年を目処に中国から撤兵等)
・乙案(条件付き南部仏印から即時撤兵等)

 

この決定を受けてワシントンの野村吉三郎駐米大使は、7日にハル国務長官に甲案を提示。

しかし意図的な回答引き伸ばしが行われたため、派遣された来栖三郎特命大使と共に乙案を20日に提示しました。

・左から野村吉三郎駐米大使、ハル国務長官、来栖三郎特命大使

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しかし26日、中国の駐兵を認めない全面撤兵、汪兆銘政権の否認、三国同盟の空文化等の交渉を振り出しに戻す全否定回答

いわゆるハルノートを突きつけられました。

米国側の高圧的な態度に、開戦反対派だった東郷茂徳外相を始めとする日本首脳部は、外交交渉を放棄して開戦で一致。

東郷茂徳(開戦及び終戦時の外務大臣。和平を主張も戦後にA級戦犯として獄中死)

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本日12月1日、御前会議が開催され、特に異論無く対米英蘭開戦を正式決定しました。

この決定を受けて、日本陸海軍は1週間後の12月8日、真珠湾マレー半島へ電撃的な奇襲攻撃を実施。

3年8か月に及ぶ地獄の太平洋戦争が始まります。

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第二次日韓協約が締結される。

【今日は何の日?】

1905年(明治38年) 11月17日

・第二次日韓協約が締結される。


19世紀後半、清国の冊封体制化にあった朝鮮は李王朝が治める清の属国でした。

明治新政府は、朝鮮を日本と同じ独立国と主張して次第に清国と対立。

1884年12月には、朝鮮で日本が支持する開化派(独立党)によるクーデター、甲申事変が発生しました。

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・甲申事変(開化派の三日天下に終わり、首謀者の金玉均は悲惨な末路を辿る)

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これを受けて、日清間では天津条約が締結されます。(朝鮮から撤兵、再出兵時には相互通知及び駐留禁止)

しかし1894年1月、甲午農民戦争が発生。

天津条約に基づき日清両国が出兵後、互いに駐留したことで7月に日清戦争が勃発しました。

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日清戦争は日本の圧勝に終わり、下関条約で清国の影響力が排除され、朝鮮は独立国となります。

独立国となった朝鮮では、開化派が復権して甲午改革を推進するも

今度は不凍港獲得を目指す南下政策中のロシアの影響力が高まります。

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閔妃を殺害されて日本に反発する朝鮮国王の高宗は、ロシアと結託したことで

開化派が失脚して親露派政権が誕生。(露館播遷)

1897年10月、ロシアの力を背景に高宗が皇帝に即位して執政を行う専制君主国家、大韓帝国が成立しました。

大韓帝国国旗

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・高宗皇帝と皇太子純宗

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こうした相次ぐロシアの圧力を受けて、1904年2月に日露戦争が勃発しました。

 

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日韓間では、韓国内で軍事行動を可能とする日韓議定書、日本人顧問を置く第一次日韓協約を締結。

列強国間では1905年5月の日本海海戦での大勝利により、日米間で桂・タフト協定、日英間で第二次日英同盟を締結し

日露間では講和条約として、ポーツマス条約を締結。

列強各国が日本の韓国支配権を承認することとなり

こうして本日11月17日、日韓保護条約こと第二次日韓協約が林権助特命全権公使の下で締結されました。

林権助(駐韓公使として日韓議定書、第一次第二次日韓協約締結を主導)

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外交を掌握する韓国統監府が設置され、初代統監には伊藤博文が就任。

韓国は外交権を失い、事実上日本の保護国となりました。

伊藤博文と皇太子李垠

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この第二次日韓協約に不満な高宗は、2年後に列強国の圧力で協約無効を目論むハーグ密使事件を引き起こし

結果、自身の退位と内政権を失う第三次日韓協約を結ぶこととなります。

・条約無効を訴える高宗の新書

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第三次ソロモン海戦 第2夜戦が発生。

【今日は何の日?】

1942年(昭和17年) 11月14

・第三次ソロモン海戦 第2夜戦が発生。


開戦以来の連戦連勝で占領地を広げた日本軍は、次なる作戦としてオーストラリアを孤立化させる米豪遮断作戦を決定。

その一環として、南方の一大航空拠点であったラバウルから、1000km離れたガダルカナル島に飛行場を建設します。(SN作戦)

しかし、飛行場の完成間近となった8月7日、突如ガダルカナル島とツラギ島に米海兵隊が上陸。

・ウォッチタワー作戦

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奇襲攻撃となった両島は翌日までに占領され、日本軍にとっては初の占領地喪失となりました。

これに対して大本営は、東西二正面で戦う米国の本格攻勢が1943年以降と考えていたため、今回の攻撃を威力偵察と判断。

敵戦力を過小評価して小部隊を送り込み、その都度撃退される戦力の小出しが続けられました。

・一木清直大佐(一木支隊を率いて、10倍以上の米海兵隊に果敢に挑み戦死)

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結果として、日を増すごとに戦力を増強する米軍に対して完全に戦機を逸してしまい

ガ島飛行場から飛び立つ敵機の攻撃で次々と輸送船が沈められ、友軍に対する補給が不足する悲惨な状態、餓島となります。

ヘンダーソン飛行場(現 ホニアラ国際空港)

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戦況打開のため大本営連合艦隊は、第2師団を投入する大規模な増援と輸送支援を決定。

10月14日夜、戦艦金剛と榛名の2隻がガ島海域に突入し、ヘンダーソン飛行場へ約1000発の艦砲射撃を行います。

・戦艦金剛(全長219.4m 主砲35.6cm シーメンス事件に関わった英国製)

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・戦艦榛名(全長222.05m 主砲35.6cm 初の民間建造戦艦 金剛型3番艦)

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この作戦が成功して飛行場は一時使用不能となりますが、すぐに復旧して第2師団上陸時には大きな被害を受けました。

26日、日米機動部隊による南太平洋海戦が発生し、米空母1隻撃沈1隻中破。

太平洋における米空母稼働数が0となります。

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これを受けて、更に第38師団増派と飛行場再攻撃を決定。

今度は戦艦比叡と霧島の2隻を投入します。

・戦艦比叡(全長222m 主砲35.6cm 昭和天皇の御召艦 金剛型2番艦)

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・比叡艦内御座所

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11月12日夜、比叡を旗艦とする挺身艦隊は、ヘンダーソン飛行場砲撃のためガ島海域に突入。

飛行場に照準を合わせた砲撃直前の状態で、突如重巡サンフランシスコを旗艦とする米艦隊と遭遇しました。

夜戦を得意とする日本側の攻撃で敵艦隊に多数の損害を与えたものの、同じく旗艦比叡など多くの艦艇が損傷したため海域を離脱。

舵が故障して海域を離脱できない比叡は曳航されるも、13日明け方に航空攻撃が集中したため自沈処分となりました。

・空襲を受ける比叡

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この第1夜戦で戦艦1隻駆逐艦2隻を喪いますが、作戦は続行。

比叡の抜けた穴に重巡愛宕と高雄を加えて残存部隊を編成後、再突入のため出撃。

・戦艦霧島(全長222.65m 主砲35.6cm 金剛型4番艦)

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・手前が高雄、奥が霧島(愛宕甲板上から撮影)

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本日14日、月光が照らす美しい夜の海で、新型戦艦2隻を主体とする米艦隊と遭遇しました。

・戦艦ワシントン(全長222.1m 主砲40.6cm)

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・戦艦サウスダコタ(全長210m 主砲40.6cm)

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本隊と分離した駆逐艦部隊が先に交戦し、新型戦艦2隻を護衛する米駆逐艦部隊が壊滅。

更に霧島の砲撃がサウスダコタに命中し、大破させました。

しかし今度は、旗艦ワシントンのレーダーを用いた集中砲撃が霧島に多数命中し、大破炎上。

15日未明、多くの船が眠る鉄底海峡で沈没し、飛行場再攻撃も中止となりました。

太平洋戦争最初で最後となる戦艦同士の殴り合いは、米側に軍配が挙がります。

この第2夜戦の隙に第38師団を乗せた輸送船団は強硬上陸するも、2000人の将兵と僅かな弾薬や米を送り届け壊滅。

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戦艦を主力と考える日本海軍は、日露戦争以来の戦艦2隻喪失に衝撃を受けました。

以後、大規模な輸送船団による補給を諦め、非効率な鼠輸送を開始。

・鼠輸送のため駆逐艦に乗り込む将兵

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ガ島に上陸した総兵力は3万人の大部隊となりますが、兵員増加と補給減少で物資不足に拍車がかかり伝染病や餓死者が続出。

翌年2月には1万人に激減した状態で餓島から撤退することとなります。