【今日は何の日?】
1905年(明治38年) 11月17日
・第二次日韓協約が締結される。
19世紀後半、清国の冊封体制化にあった朝鮮は李王朝が治める清の属国でした。
明治新政府は、朝鮮を日本と同じ独立国と主張して次第に清国と対立。
1884年12月には、朝鮮で日本が支持する開化派(独立党)によるクーデター、甲申事変が発生しました。
・甲申事変(開化派の三日天下に終わり、首謀者の金玉均は悲惨な末路を辿る)
これを受けて、日清間では天津条約が締結されます。(朝鮮から撤兵、再出兵時には相互通知及び駐留禁止)
しかし1894年1月、甲午農民戦争が発生。
天津条約に基づき日清両国が出兵後、互いに駐留したことで7月に日清戦争が勃発しました。
日清戦争は日本の圧勝に終わり、下関条約で清国の影響力が排除され、朝鮮は独立国となります。
独立国となった朝鮮では、開化派が復権して甲午改革を推進するも
今度は不凍港獲得を目指す南下政策中のロシアの影響力が高まります。
妃閔妃を殺害されて日本に反発する朝鮮国王の高宗は、ロシアと結託したことで
開化派が失脚して親露派政権が誕生。(露館播遷)
1897年10月、ロシアの力を背景に高宗が皇帝に即位して執政を行う専制君主国家、大韓帝国が成立しました。
・大韓帝国国旗
・高宗皇帝と皇太子純宗
こうした相次ぐロシアの圧力を受けて、1904年2月に日露戦争が勃発しました。
日韓間では、韓国内で軍事行動を可能とする日韓議定書、日本人顧問を置く第一次日韓協約を締結。
列強国間では1905年5月の日本海海戦での大勝利により、日米間で桂・タフト協定、日英間で第二次日英同盟を締結し
列強各国が日本の韓国支配権を承認することとなり
こうして本日11月17日、日韓保護条約こと第二次日韓協約が林権助特命全権公使の下で締結されました。
・林権助(駐韓公使として日韓議定書、第一次第二次日韓協約締結を主導)
外交を掌握する韓国統監府が設置され、初代統監には伊藤博文が就任。
韓国は外交権を失い、事実上日本の保護国となりました。
・伊藤博文と皇太子李垠
この第二次日韓協約に不満な高宗は、2年後に列強国の圧力で協約無効を目論むハーグ密使事件を引き起こし
結果、自身の退位と内政権を失う第三次日韓協約を結ぶこととなります。